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オリンピックイヤーまであと1カ月半というタイミングで、サニブラウン・ハキーム(フロリダ大)は、ひとつの決断を下した。
「プロ選手になることを決意しました」。2019年11月15日。ツイッターでの「宣言」はきっぱりした内容だった。
「より陸上に集中できる環境に身を置いて(中略)プロという厳しい世界で結果を出していけるようにベストを尽くしたい」
環境を大きく変える決断はリスクをはらむ。だが、これまでだって変化を恐れたことはない。
五輪でファイナリストを目指す若者は、「世界最速」への階段を駆け上がろうとしている。


彼の名が世界にとどろいたのは2015年。東京・城西高2年だったサニブラウン・ハキームは、世界ユース選手権の100メートル、
200メートルで2冠に輝いた。
「ワクワクが止まらない感じ」。200メートルはウサイン・ボルト(ジャマイカ)の記録を塗り替えた。
16年、左足を痛めて日本選手権を欠場。リオデジャネイロ五輪への道は断たれた。
「挑戦することは大事。いろいろなことを学びたい」。
より高いレベルを求めて、陸上大国・米国のフロリダ大に進学することを決めた。
高校最後の1年は「体より頭と心が成長した」という。
大学ではスポーツマネジメントの勉強をしたいと考えるようになった。
渡米前に出場した17年6月の日本選手権では、100メートルと200メートルを制覇。
約1カ月半後の世界選手権では200メートルで決勝に進出した。
「こんなんで満足しちゃ駄目」
「一番にならないと全く意味がないというのを肌で感じた試合だった」
レース後に発した言葉は、反省ばかり。頭の中は世界のトップといかに戦うかでいっぱいだった。
17年9月、フロリダ大に入学した。温暖な気候と、五輪メダリストを多く育てたマイク・ホロウェイ監督の存在。
「君のポテンシャルは自分で思っているよりも大きい」と励まされた。
スタート、足の動かし方、腕の振り、頭の角度。どれも細かい動きだが、走りのバランスとスピードを左右する。
「ここでの練習は質が高い」と実感することができた。


好結果を残せば残すほど、周囲は100メートルでの「10秒の壁」突破へ期待を強めていく。
だが、当の本人は冷静だった。
「9秒台にこだわるより、自分に合ったフォームを見つけることがアスリートとしては大切」
「(9秒台を)壁と意識したら終わり。出るときは出るし、出ないときは出ない」
渡米して8カ月ほどたった時、右足をけがした。治療を優先しながら、地道なトレーニングを続けた。
故障が癒えた19年6月の全米大学選手権。「ぶっちゃけ、『ぼくVSアメリカ』みたいな感じ。ちょっと楽しみ」。
にこやかに語りながら、胸は高鳴った。100メートルで9秒97をたたき出した。
「このハイレベルでレースをしてすごく楽しい。日本ではこういう体験はめったにできない。こっちに来てよかった」

その後、日本選手権のために約1年半ぶりに帰国すると、新たなスターとして熱烈に歓迎された。 だが本人は「気持ちの部分で変わっているものはないかな」と素知らぬ顔。過去最高レベルとされた大会で、 2度目の短距離2冠をあっさり達成した。


「自分のレースができるように集中している。本当に自分との戦いだと思っている」
ライバルについて問われてもあまり語ろうとしない。
100メートルで9秒台を出した日本選手は他に桐生祥秀、小池祐貴と2人いるが、彼らと接する表情は普段と変わらない。
「いちばん速く走ってゴールした人が勝ち。見たとおりで分かりやすい」
陸上の魅力を問われると、こう答えることが多い。
小学3年生までサッカーをしていたが、チームスポーツにはあまり向いていないと感じたという。
ライバルの動きより、自分のフォームやスピードに関心が向く。
チームや仲間を頼らなくても、上昇気流をつかむことができる。サニブラウンはそういう選手なのだろう。
19年10月の世界選手権では個人種目を100メートルに絞ったが、準決勝でスタートに出遅れ敗退。
「(ピストルの)音が聞こえなかった」と、消化不良のままシーズンを終えた。
「プロの世界は何もかも教わるものではない。自分で考えないとだめ」
かつてオランダで武者修行した時に感じたことだ。フロリダ大での学業を続けながら、より高いレベルへ向かう。
20歳のパイオニアは前だけを見つめている。
