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2016年、ブラジル・リオデジャネイロ。五輪デビューとなった女子卓球団体1回戦の後、
15歳だった伊藤美誠は「先輩を手ぶらで帰すわけにはいかない」と言ってのけた。
シングルス代表は、当時27歳の福原愛と23歳の石川佳純。2人ともメダルを獲得できずに終わり、団体戦を迎えた。
伊藤は団体を一緒に戦う「3人目の選手」だった。
「妹」は、先輩2人とともに銅メダルを獲得。一気にスターダムに駆け上がった。


リオから東京への道のりは、平たんではなかった。
同い年の平野美宇が、リオ五輪代表になれなかった悔しさをバネに成長していた。
2017年1月の全日本選手権に史上最年少(当時)で優勝。世界選手権個人戦でも48年ぶりに表彰台に立った。
快進撃を続けるライバルに対し、伊藤は受け身に回ることが多くなった。
「相手に向かってこられるし、プレッシャーをどこかで感じていた。試合をするのが怖かった」
負けが続いたリオ後の約1年間は、雌伏の季節だった。心が折れそうに感じたこともある。
だが、この苦しみが伊藤を変えた。


人生の全てを卓球に費やしてきたと言っていい。地元の静岡県磐田市で卓球大会の常連だった母、美乃り(みのり)さんの影響だ。
「中国の選手がサーブをフォアハンドの方に出したよ」「ボールが浮いて強打されたよ」
美乃りさんは妊娠中、衛星放送で流れる海外のトップ選手たちのプレーの数々を”聞かせて”いた。
トイレットペーパーの芯を加工してつくった筒をおなかに当て、娘に語りかけた。
「ベビーちゃんならどうする? ママならこうする」
伊藤がラケットを初めて握ったのは2歳の終わり。母は娘の才能をすぐに感じ取った。
初めのうち、練習時間は30分、少し伸びて1時間。それでは足りないと、家を新築した。
最初に運び入れた家具は「冗談抜きで卓球台」と美乃りさんは笑う。猛特訓が始まった。
小学3年の頃までは毎日泣いてばかり。まるでスポ根漫画のようなトレーニングが続いた。
長いときには4時間ぶっ通しで練習した。「千本ノーミスドライブ」もその一つ。全身を使い、腕を下から上へと振り上げてドライブ回転かけた強打を繰り返す。
1本でもミスすればゼロからやり直しだった。
小さい頃からの負けず嫌い。「休憩しようか?」。厳しい母が思わず優しい言葉をかけても、大泣きしながら「やる!」とボールを打ち続けた。
母はただ厳しいだけではなかった。練習が終われば強く抱きしめられ、ベッドでは「愛しているよ」と言い聞かされながら眠りについた。


抜群のセンス。そのせいか「省エネ」だった卓球スタイルを、見つめ直した。「もっと動ける卓球なら勝てる」。
フットワークを鍛え直し、基礎練習を地道に続け、技術と根気も磨いた。
18年は全日本選手権の決勝で平野を倒し、念願の日本一。女子ダブルスと混合ダブルスも制して3冠を達成した。
厳しい代表選考に明け暮れた19年は全日本選手権で2年連続3冠を達成。中国のトップ選手たちを脅かすまでに成長した。
同世代のライバルである孫穎莎(スン・イーシャ)とは19年10月から11月にかけ、国際大会で4回戦った。
1勝3敗と負け越したがいずれも熱戦で観客を沸かせ、成長した姿を見せた。
19年12月22日、カメイアリーナ仙台で行われたジャパン・トップ12。伊藤は決勝で平野とまみえた。
東京五輪の卓球女子シングルスに出場できる選手は2人だけ。幼い頃から互いを熟知する2人の置かれた状況は対照的だった。
シングルス代表の座を確実にしていた伊藤。他方の平野は代表を逃し、団体メンバーとして最後の1枠入りに懸けていた。
フォアハンドの強打を連発する猛攻。「なんとしてでも意地。本当に意地」。伊藤は152センチの体をめいっぱい伸ばし、しのぎ続けた。
ゲームカウント2―1で迎えた第4ゲームは一進一退が続いた。
「ことしラストの大会、頑張ろう、必死に頑張ろう」。自分を励まし続け、自然に足も動いた。
果てしないシーソーゲームを17―15で制し、続く第5ゲームは、根負けした平野を11―5で突き放した。
2019年最後の試合を最高の形で終えた。


長いラリーに勝てば笑顔でガッツポーズ、負ければ苦笑い。どんな苦境に追い込まれても笑顔を失わない。
ライバルとの熱戦を喜び、ピンチすら楽しむかのようなプレーは、観客の心をわしづかみにする。
「自分らしく戦うこと、楽しんでやること」
本来の速攻、左右への反応の速さ、広い守備範囲。
日本勢がはね返され続けてきた陳夢(チェン・メン)、劉詩雯(リュウ・シウェン)ら中国選手の壁に迫る強さを身に付けつつある。
「練習をたくさんして、たくさん試合をして、試合に勝っていく」。その繰り返しが自信につながると自覚している。
東京五輪まで半年余り。10代最後の夏を駆け抜ける。
